説教 「十字架の主の後に《

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2025年9月7日 聖霊降臨後第13主日説教
テキストは ルカによる福音書14:25*33

 時中に捕えられたキリスト者、牧師たちがキリスト教を止めるように強要されていたことは歴史の示すところです。その際に、最も彼らが効果的だとして使ったことは、家族を引き合いに出して、お前がキリストを信じていることによってお前の家族が酷い目に遭うのだと脅すことだったと伝えられています。

 当時の当局はものすごく卑怯な手段を使って、そのようにキリスト者を脅し、信仰を捨てさせようとしていたということです。そして、それには皆弱いのも事実です。ですから、日本の中では、そのように脅されて信仰を捨てた人が大勢いたということでした。

 自分が殺されてもかまわないと思ったとしても、自分のせいで、家族が酷い目に遭わされ、あるいは殺されるようなことになるくらいなら、信仰を捨てて、家族を助ける方を選ぶことになるということでした。

 それと同じことを今自分にされたらどうするだろうかということが問われるときがあるかも知れません。今の社会情勢は、そういうときが来る前兆のような状況で、第二次世界大戦の始まる前の状況に似ていると言われています。

 戦時中、同じことが韓国でも行われていたという話しを聞いたことがあります。そして、それに対する韓国の多くの人たちは、譬え家族がどのような目に遭わされたとしても、信仰を捨てないと主張し続けて、多くのキリスト者が日本軍によって殺されたとも伝えられています。

 その結果かどうかの検証はしていませんし、されていないかも知れませんが、日本のキリスト教が多くの人たちに伝わりにくいことと関係が無いとは言えないように思われます。韓国では譬え自分の命を奪われても信仰を貫いた人たちの信仰が伝えられ、多くの人たちがその信仰に触れて、その信仰を受け入れることになったいったという面もあるのではないでしょうか。

 日本の場合は、戦後、アメリカの占領下にあって、禁止されていたアメリカ文化に対するあこがれのようなものがあって、急激に、それらを体験出来るようになったので、それに興味を持った人たちの多くが、西洋文化に触れたいと思い、一時的なキリスト教ブームが起きたものの、10年もしない内に、そのようなブームは去ってしまい、アメリカ主導のキリスト教は一時的な興味はあったとしても、それは多くの民衆の心に浸透しなかったということだったのではないかと思われます。

 イエス様が今日の福音書で大変厳しいと感じられるお話しをされました。自分の家族を憎む者、自分自身を憎む者でなければイエス様の弟子ではあり得ないという、とてもそんなことは上可能だと思わされるようなことが言われています。

 これが、しかし、とても重要なところなので、わたしたちはこのイエス様が言ってくださっていることをしっかりと受け取りたいのです。それは、イエス様について行くということはイエス様が十字架を背負って進んで行くのについて行くということで、ついて行く人も自分の十字架を背負ってついて行くことになるのだというこの世の現実を告げておられるからです。

 実際に、本気になってイエス様について行こうとすると、この世の中ではとんでもないリスクを負うようなことになってしまうというこの世の現実が今も尚あるということです。この世は、どこまで行っても、イエス様を捕らえて十字架につけるようなものであることに変わりはありません。

 イエス様の十字架を負って進む姿は、わたしたちを愛し、救おうとしておられる、この世によって捕らえられ死刑にさせられる姿です。この世はいつまでたっても、イエス様を邪魔者とします。イエス様が教えてくださっている、自分を犠牲にして人を救うということは、この世では受け入れられないことが多いのです。

 戦時中何故、日本の国はキリスト教を認めなかったのでしょうか。表面的には認めていましたが、条件付きでした。つまり、天の神様、キリストよりも、天皇を優先するという条件を守る限り認めるということでした。

 それは、逆に言えば、天地創造の聖書が伝えている神様が天皇よりも上で、全てを支配しておられるという信仰を告白したら、それは認められないということです。そして、日本の教会はほとんど全て、その条件を受け入れて存続を認めてもらっていたということでした。

 つまり、弟子の覚悟が出来ていなかったということです。たとえ、殺されても、家族に被害が及ぶと脅されても、信仰を捨てないし、天皇を神と崇めるようなことはしないとすれば、それはそれはとんでもない迫害を受けたことでしょう。

 かつて、キリシタン時代に、信仰を捨てなかった多くの人たちが殉教し、多くのキリシタンたちは迫害を受け、日本からキリスト教がほとんどかき消されてしまいました。それは、約300年間も続いたという歴史です。

 日本はそういう意味ではかなり特殊な経験をしている国だと言えるでしょう。キリスト者人口が、全体の約1%にも満たない状態が続いているのも、他に国には類を見ない現象です。キリスト者の占める割合が最も少ないと言われているタイでも全体の人口の約2%のキリスト者はいるということです。

 そんな日本の中で、キリスト者でいるという、ここに集まっている皆さんや、他の教会に集まっている皆さんは相当特殊な状況に置かれているということでもあります。そういう意味では、様々なリスクを負う羽目になることも多いことでしょう。

 それが、既に、自分の十字架を負ってキリストイエス様に従っているということになっているとも言えるでしょう。そして、更に、イエス様がわたしたちを愛してくださったように、人を愛そうとすると、更なるリスクを負うことになる場合が多いでしょう。

 建物を建てようとしても立てられなかった人の譬えや、相手の国に降伏して和議を求める人の譬えは、自分を犠牲にすることになってしまう人を現わしていると言えるでしょう。自分の十字架を負ってイエス様に従う姿がそこにはあります。

 自分の成功を誇る在り方ではなく、自分が出来ないことを認めて、神様に朊従するあり方が示されています。わたしたちは力の無い者です。建物を建てられず、相手に降伏を申し出て和睦してもらうしか出来ない弱い者です。

 ですから、イエス様がご自分を全く弱い者として、皆の手にかけられて十字架に引き立てられて行くうしろに、キリスト者たちも、世の中で敗北している者のように十字架を背負わされ、引き立てられるような歩みをすることになるのを受け入れることになります。

 そして、十字架につけられたそこのところで、イエス様が彼らに罪を負わせないでくださいと祈った祈りを共に祈りつつ、そのみ後に従って行くことになります。わたしたちはこの世に対していはとても弱く、厳しいこの世の現実の中でもがきながらイエス様について歩んでいます。そのことをイエス様が誰よりも、最もよく分かってくださっています。

 分かっておられるイエス様が、わたしたちに、ついて来なさいと声をかけてくださっています。これからも、何が起こるか分からないこの世にあって、弱くて、小さなわたしたちですが、忍耐強く、十字架を背負いながら、イエス様のみ後についていきましょう。

        アーメン。


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